
これはぼくが前職の木材商社で働きながら東京で暮らしていたときのはなし。
ぼくが暮らしていた社員寮にはグループ会社の社員だけではなく、何十人かの大工さんも一緒に暮らしていました。「桐生のオッチャン」もまたその大工さんのひとり。当時67歳。中学卒業と同時に大工になったということだから、その道五十年以上の大ベテランです。
オッチャンとはお風呂に入るタイミングが重なることが多くて、浴槽につかりながら、いつも家や山の話をたくさん聞かせてくれました。
小柄な骨格にしっかりと筋肉がのっていて、ゴツゴツした手はまさに職人のもの。「昔は腹もバキバキに割れてたけんどなぁ」と腹の皮を引っ張っては、へへ、と照れ笑いをする。
オッチャンは新潟県・土市の出身。偶然にも、母方の祖父の出身地である津南町のすぐ近く。ずいぶん前に死んだジイチャンと一緒で越乃寒梅が大好きな生粋の新潟っ子だ。
偶然は重なるもので、ぼくの出身地である愛知県津島市にも七、八年暮らしながら親戚の工務店を手伝っていたというから驚きだ。世間は狭い。でも、だからオッチャンと仲良くなれたのだ。
ある日、寮の夕食のブリの照り焼きをつつきながら二人で晩酌していました。誕生日プレゼントにいただいた二十五年モノの古酒(1989年製、ぼくと同い年だ)をちびちびと啜りながら、他愛もない話をしました。「日本酒じゃないみたいだんべなぁ」とぐいぐい杯を傾けて、あっという間にオッチャンの顔は真っ赤になった。
五十年もの間、大工一筋で生きてきたオッチャンは文字通り「生き字引き」のようで、木材の種類から家の作り方まで手触り感のある仕事話をいつまでも聞かせてくれました。
「使う木も家の造り方もだいぶ変わったけんど、何十年も住む家だから丁寧に丁寧に作らなかんわなぁ」と仕事のあるべき姿を教えてくれました。オッチャンがつついていたブリの照り焼きはきれいに骨と皮だけになっている。
前職時代、ぼくは木材流通の川中に位置する木材商社で木材を仕入れては売っていました。オッチャンは川下でお施主さんのために家を建てています。同じように木と家に関わる仕事をしているにも関わらず、ふだんの仕事の中でお互いの顔が見えることはまったくありません。
FAXで送った発注書にあった構造材が何処の誰の家で使われるのか、ぼくは分かりません。オッチャンが使った造作材は何処で生えていた木から出来ているのか分かりません。
それは、現在の木材流通では至極当たり前のことなんだけれど、少なくともオッチャンの腹筋が割れていた頃は、少し違っていたようです。お施主さんの裏山に生えているヒノキを新しく建てる家の柱に使った時代があったんだべや、としみじみ教えてくれました。
安定供給や品質維持といった木材業界での決まり文句の果てが今の木材流通の姿なのかもしれないけれど、決して懐古主義ではない「関わるひと達の顔や産地の見える木材」があってもいいんじゃないかと思うんです。
「あの大工さんに家を建ててもらいたい」「あのひとが育てた山の木を使いたい」そう思うお客さんは必ずいるはずだし、そういった需要こそ、小規模な産地や企業が戦うべき土俵なのかもしれません。
「アンタがよぉけ金稼いで、立派な家を建てるときは、オレのこと呼んでくれよぅ」桐生のオッチャンは真っ赤な顔をしながら言いました。たしか、三回。
「それまでオッチャンも現役バリバリでおってくれな困るでね」と伝えること三回。いや、すっかりぼくも酔っ払っていてうろ覚えなのだけれど。
久しぶりの東京出張。毎日のように揺られていた満員電車の中央線に乗ったとき、ふと思い出したのはなぜだか桐生のオッチャンだったのでした。
今度はオッチャンの大好きな越乃寒梅で晩酌しましょうね、といつかの口約束が果たせないままなのが心残り。酔っ払った勢いで久しぶりにオッチャンに電話でもしてみようと思ったのでした。